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アリヨシコウスケのブログ
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ALBERTO CAMPO BAEZA -光の建築-



スペインの建築家アルベルト・カンポ・バエザの作品集。『構築された概念』を提唱し目指す正統派のモダニスト。大学の教鞭に立つ傍らでの設計活動により、寡作ではあるが非常に力強い建築を残している。寡作であることは、また、建築するに必要な時間を十分に確保するためでもあるようだ。それは巻末のインタビューでも語られている。

作品はいづれも端正なディテールで仕上げられており、非常に美しく、かつ、明快である。ガウディのイメージの強いスペインでのホワイトキューブはむしろ異色と思えるかもしれない。寡作と言うこともあり、貴重な作品集と言えそう。

氏は建築を本質から見つめる建築家である。彼の哲学からいうと、概念、光、重力の3つを建築の本質的要素とし、それらが正確かつ最小限に表現され、人間のために構築されたものを『建築』としている。ここでいう『概念』とは、人間を中心に据えた時の、コンテクスト(文脈)や機能、構成、構法、歴史といった諸要素に対する問答を指し、この3つのいずれか1つでも欠ければ、氏にとってそれは建築ではない。それは本誌後半に掲載されている氏の代表的なエッセイ『構築された概念/建築について』から読める。

講師ということもあって理解しやすく非常に納得のできる哲学ではあるが、ただ一点だけ、『人間を中心に捉える』ことについて曖昧な点が気になった。彼の建築には、一貫して対称性や幾何学という古の形式が多用されているという事実がある。これらの限られた構成論で構築された空間が、本当に多様な現代を生きる人間のニーズに答えられる強度をもつ空間なのだろうか、というのが正直な疑問だ。もしも、モダニズムの特徴である建築の『素直さ』が、明らかに人間に退屈さや窮屈さ、その他何かしらの不満足感を与えるのであれば、それは間違いであろうというふうに僕は思う。普遍性の重要性は理解しているつもりであるが、広く浅く、よりも狭く深く、の方が今日の社会的ニーズに応えているように思うからである。ただし、氏が歴史の開拓ではなく、引継ぎを重要視していることからも、このような議論そのものが無意味なのかもしれない。

狭く深い、普遍性というものははたして有り得ないのだろうか。
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1995年以後 -次世代建築家の語る都市と建築-



自身も若手建築家の一人である藤村龍至氏を筆頭とした建築メディアチーム『チームラウンドアバウト』という集団が、次世代を担うであろう若手建築家を独自に選定し、インタビュー形式で彼らの都市観・建築観を引き出そうと試みている本です。インタビューは、時折、藤村氏の建築観である『批判的工学主義』という概念とを比較・相対化しながら進んで行くのですが、それによって、ただの受動的なインタビューとは違う生々しさ、刺激を生んでいます。

率直に、皆さんほんとうにまじめで頭が良い。建築をめざす若者にはバイブル的な一冊になるのではないでしょうか。僕は参考までに読ませて頂きました。
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羊をめぐる冒険



僕と鼠の物語、※三部作完結編。完結編にして傑作。村上作品の特徴でもある、文体の読みやすさとそれに反するような表現意図の難解さに加え、極めてドラマチックな展開と結末が、本作をより一つ上のフィールドに押し上げているような気がします。僕は彼の作品で頻繁に用いられる、あの独特な比喩が好きなのですが、あれが果たして単なる比喩なのか、それとも何かを意味する暗喩なのか、そこを「読み」ながら「読む」ことを一つの楽しみとしています。

※実際は、後に続編が書かれ四部作となっています
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1973年のピンボール



デビュー作「風の歌を聴け」に続く、第二部。「僕」と「鼠」それぞれの人生が、まるで錯綜するように交互に構成されている。根底にあるのは、生に対する苦悩、不安、恐怖、そして諦めである。といっても絶望しているわけではなく、ごくごく自然な、誰しもが一度はぶつかったであろう、あの負のスパイラルが延々物語化されている。

ここでのピンボールとは、人生を象徴するもの、として僕は捉えた。延々と同じことを繰り返し、その繰り返し自体に何の意味も無く、何も得るものもない。そこにあるのは、限りなく無駄な時間の浪費と、金の浪費と、ハイスコアのレコードという、泡のような僅かな達成感と誇り。泡はすぐに消えてなくなる。人生の浪費とは、冗長な生に対する、抵抗であり、戸惑いであるのかもしれない。

生を考えることは死を考えることに等しい。とは、僕の考え。著者は、きっと死を見つめていたに違いない。それは自殺という意味ではなく、死を見つめることで生を見つめていたのだ。真意は知らないが、その永遠に答えの出ない問いかけに答えようとして生まれた、これはそんな文章のように思えた。

そして、なぜか、そこには懐かしい記憶の空間が広がっていた。
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構造デザイン講義


独自のデザイン哲学を展開する建築家・内藤廣さんの、東京大学で行った講義を書籍化したものです。単純にRCや木造といった、構造とそのデザインに関する話もあれば、これからのデザイナーやエンジニアに求められるべき資質とは何か、どのような能力を鍛えるべきかなどといったことまで言及されており、結構面白く読めます。内容も、そもそも講義なので平易ですし、手軽にあの東京大学(笑)の講義が受けられるのだから、ありがたいことですね。これからの時代は、デザイナーも「構造」について無知ではいられないと思います。プロのエンジニアになる必要はなくとも、直感的に構造とデザインとを結びつけられるようなセンスが必要になってくるのではないでしょうか。…オーガニックなセンスを持った理系デザイナーを目指したい(?)とは常々思っています。
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風の歌を聴け



風の歌を聴いた。あのスカイブルーのような色の世界に吹く風は、ところどころに小さな渦をつくり、つくっては消え、消えてはつくりを繰り返していた。そんな、大人であれば誰しもが経験したであろう蒼く透き通った世界の、小さな記憶のゆらぎを喚起させる物語、それこそが本作最大の魅力なのだろうと僕は理解する。村上春樹、軽やかなデビュー作である。
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四とそれ以上の国



いしいしんじ最新作。文藝春秋に掲載された作品を集めて書籍化したもの。本作は四国を舞台とする、五つの物語で構成されている。それぞれのエピソード全く違えど、この五話は螺旋状に、付かず離れず絡み合っているような感覚を覚える内容になっている。それはたぶん、「いしいしんじ」というライターの存在を強く感じさせる文体表現であるからということだけでなし、生や死を通した人生という、永遠に螺旋状に続くようなテーマが、全エピソードに暗喩されているからではあるまいか。

文体はいづれも不可思議な表現である。現実と非現実との狭間がわからなくなってしまうような不思議な文体に、あられのように降りつける文字化された断片的なイメージによって、読むさなかで居場所を見失いそうにさえなる。文章としてははっきり言って読みにくい。だから頭で読むというよりかは感覚的にざっくりと読む、という読み方がふさわしく、実際そのようにして読むと、文字化された世界が頭に広がった。

「四」とは「四」であると同時に「死」であるのかもしれない。そう捉えると、表題の「それ以上の国」という言葉に深みが出てくる。五部構成という形式も、カバーの「四」というフォントが五角形なのも、何か意味があるように思える。ちなみにカバーデザインが秀逸である。少し凹凸のある紙に絵画のような不思議な色彩の抽象的な絵が描かれ、そこにオリジナルフォントの表題が黒抜きで焼印のように入っている。調べてみると池田進吾というデザイナーの仕事のようで、広告出身ということもあってか、自然でありながらもキャッチーなつくりとなっている。この著者のカバーデザインは非常に難しいだろうと思う。

ポップ3割、ダーク7割なので、おすすめはしない。しかし、哲学的な要素を含むヒューマンファンタジーであり、著者にとっても、今後の代表作になるのは間違いないような大作だとは思う。
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Say Hello! あのこによろしく。



1匹の母犬と3匹の子犬の、出産から旅立ちまでを記録した小さな写真集。無垢な愛情とかわいさ、それにちょっとだけ命というものについて考えちゃうような優しいポケットブックです。「うまれて、ありがとう。」という言葉、深いね。
本のカバーを広げると、母犬の後ろ姿を模したデザインになっていることがわかります。まるで、母犬が子供たちとの思い出を大事に包み込んでいるような、そんなイメージを誘う出来の良いデザイン。
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中国行きのスロウ・ボード

中国行きのスロウ・ボード

実のところ、ちゃんとした小説はあまり読んだことがない。「ちゃんとした」小説とは、「Dr.スランプの小説」などといった非文学的なものでない小説を指す。ちなみにDr.スランプとは、漫画家の鳥山明さんがドラゴンボールを描く前に描いていた大人気漫画であり、僕らの年代くらいまでの人はだいたい知っている。
「あまり」というだけあって、ちゃんとした小説もいくらかは読んでいるはずだが、個人的な趣味として自主的に読んだものはほとんどなかったし、内容もあまり覚えてはいない。どちらかというと、漫画や歴史の本が好きだった。

本棚をごそごそし、自分の所持している冊数を数えてみたが、やはり数えるほどしかない。というか数えるほどもない。

・吾輩は猫である 夏目漱石
・二十四の瞳 壷井栄
・車のいろは空のいろ あまんきみこ

たった3冊である(吾輩は猫であるは、上下2冊あるので正確に言えば4冊。もっと言うなら、自分で買ったのは0冊!)これらは当然読んでいるのだが、内容はほんとうに曖昧にしか覚えていない。自分の記憶のいいかげんさを再認識した。

で、「中国行きのスロウ・ボード」という短編集を買ってみた。自分で買ったはじめての小説。と言っても中古本で260円くらいのもの。なぜ急に買ったりしたのか?それは今年の盆に熊本へと独り旅をした際、暇つぶしにと先輩に借りた一冊の短編小説による。いしいしんじの「トリツカレ男」。読みやすくて、すぐに気に入った。大したことではないが、ただそれだけのことがきっかけとなり、趣味の範囲になかった「小説」を買うにいたっている。
「中国行きのスロウ・ボード」とは、7つある短編の中の一つの表題である。これは村上春樹初の短編集らしいのだが、彼の作品を一読もしていない自分にとっては、特に思い入れがあるわけでもマニア魂があるわけでもなかったし、その点はどうでもいいことであった。むしろ純粋な気持ちで読むことができたように思う。
雰囲気で言うと、蒼々としたさわやかさと、雨の日のようなもの哀しさが同居しているような、そんな感じの作品である。カバーのイラストがほんとうによく表していると感じた。味の薄そうな不格好で濁った色の洋梨が二つ、爽やかな皿の上で寄り添っている。良いイラストだと思う。
一言でいうと、彼の文面はわかりづらい。正確にいうと、わかるのだがわからない。比喩が多いから尚更だ。しかし、その文面には独特な「間」と「装飾」がある。その間と装飾は、その景色や時間、心情を読み手に伝えるために重要な役割をはたしており、どちらも必要なものとなっている。彼はその辺の言葉の選択とレイアウトが非常に巧みなんだろう。だから、「わからない」けど「わかる」のかもしれない。
もう一つ、構成の仕方も巧いと思った。まず、出てくるキャラクターがほんとうに少数である。キャラを限定することで情報過多を避け、作品を強いものにできるし、読者はキャラを常に意識できる。次に、みな少しだけ変わった習性を持っていることがあげられる。これは「完全に個性的」なキャラクターでないことがミソであろう。つまり、フィクションでありながら私たちの日常に近いために、読者は本の世界へと入り込みやすい。そしてそんなキャラ達が、(前述したように)彼の選んだ言葉に包まれ、配され、不思議なバランスの世界観が生まれているような気がする。それはキャラ以外の部分にも言える。

などと、感じたことを並べてはみたが、村上春樹という作家の作品性についてはまだ何も語ることはできない。ここで語れるのは、あくまでこの小説の感想のみである。なぜ中国なんだ?、中国とはなんだ?、中国は、中国であって中国でないのである。
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